四〜五
von 芥川龍之介
その男の性格は、吝嗇で、貪欲で、恥知らずで、怠け者で、強欲でした。特に目立つのは、横柄で高慢なところで、いつも自分が本朝第一の絵師だと鼻にかけていました。画道のことだけならまだしも、彼は世間の習慣や慣例までも軽蔑していました。これは、永年良秀の弟子であった男の話です。ある日、ある方の邸で名高い檜垣の巫女に霊が憑いて恐ろしい託宣があったとき、彼は空耳を立てながら、手近にあった筆と墨でその巫女の恐ろしい顔を丁寧に写していたと言います。おそらく、霊の祟りも彼の目には子供騙しのように映ったのでしょう。
そんな男ですから、吉祥天を描くときには卑しい傀儡の顔を写し、不動明王を描くときには無頼の放免の姿を描くなど、さまざまな無礼を働きました。それでも、彼に詰め寄ると「良秀が描いた神仏が、良秀に冥罰を与えるなんて、聞いたことがない」と平然と嘯いていました。これにはさすがの弟子たちも呆れ果て、中には未来の恐ろしさを感じて、すぐに暇を取った者も少なくなかったようです。要するに、彼は慢心が重なり合った男でした。とにかく、当時の世の中で、自分ほど偉い人間はいないと思っていたのです。
したがって、良秀がどれほど画道で高名であったかは、言うまでもありません。尤も、彼の絵は筆使いや彩色が他の絵師とはまったく異なっていたため、仲の悪い絵師仲間の間では「山師だ」と評判が立っていました。その連中は、川成や金岡など昔の名匠の筆による作品については、板戸の梅の花が月の夜ごとに香り、屏風の大宮人が笛を吹く音さえ聞こえると優美な噂を立てていましたが、良秀の絵になると、いつも気味の悪い妙な評判しか伝わりませんでした。たとえば、彼が龍蓋寺の門に描いた五趣生死の絵についても、夜遅く門の下を通ると、天人の嘆息や啜り泣きの声が聞こえたと言われています。中には、死人の腐る臭いを嗅いだという者さえいました。また、大殿様の命で描いた女房たちの似絵も、その絵に写された人間は三年も経たないうちに、皆魂が抜けたような病気になって死んだと言われています。悪く言う者は、それが良秀の絵の邪道に落ちている証拠だと言っていました。
しかし、前述の通り、横紙破りな男ですから、それが逆に良秀の自慢となり、ある時大殿様が冗談で「その方はどうも醜いものが好きなようだ」とおっしゃったとき、彼は年齢に似合わぬ赤い唇でにやりと気味悪く笑いながら、「その通りでございます。絵師は醜いものの美しさなど、わかるはずがありません」と横柄に答えました。どうして本朝第一の絵師でありながら、大殿様の前でそのような高言を吐けたのでしょうか。先ほど引き合いに出した弟子が、内々に師匠に「智羅永寿」というあだ名をつけて、彼の増長を嘲笑っていたのも無理はありません。「智羅永寿」というのは、昔、震旦から渡ってきた天狗の名です。
しかし、この良秀にさえ、何とも言えない横道者の彼にさえ、ただ一つ人間らしい情愛がありました。それは、良秀が一人娘の小女房をまるで気違いのように可愛がっていたことです。先ほど申し上げた通り、娘も非常に気の優しい、親思いの女でしたが、あの男の子煩悩は決してそれに劣るものではありません。何しろ、娘の着る物や髪飾りのことになると、どこの御寺の勧進にも喜捨をしたことのない彼が、金銭には一切惜しまず、整えてやると言うのですから、嘘のように感じられます。
しかし、良秀が娘を可愛がるのはただ可愛がるだけで、良い婿を取ろうなどとは夢にも考えていませんでした。むしろ、あの娘に悪く言い寄る者がいれば、辻冠者たちを集めて暗打を食わせるほどの量見でした。ですから、あの娘が大殿様の御声がかりで小女房に上がったとき、老爺は大不満で、当座の間は御前に出ても苦り切ってばかりいました。大殿様が娘の美しさに心を惹かれ、親の不承知を顧みずに召し上げたという噂は、大方そのような様子を見た者の推測から出たものでしょう。
尤も、その噂は嘘であっても、子煩悩の一心から良秀が娘の下るように祈っていたことは確かです。ある時、大殿様の命で稚児文殊を描いた際、御寵愛の童の顔を写し、見事な出来栄えに仕上げたため、大殿様も大いに満足され、「褒美には望みの物を取らせるぞ。遠慮なく望め」と仰せられました。すると良秀は畏まって、何を申し上げるかと思ったら、「何卒、私の娘を御下げ下さいますように」と臆面もなく申し上げました。外のお邸ならともかく、堀河の大殿様の御側に仕えている者が、どれほど可愛いからといって、このように無礼に御暇を願う者が、どこの国にいるでしょうか。これには大殿様も少しご機嫌を損じたようで、しばらくはただ黙って良秀の顔を眺めておられましたが、やがて、
「それはならぬ。」と彼は吐き捨てるように言った後、急に立ち上がってしまった。こんなことが、前後に四、五回もあっただろうか。今になって考えてみると、大殿様が良秀を見つめる目は、そのたびごとに次第に冷たくなっていたように思える。
一方で、娘の方は父の身を案じていたのだろうか、曹司にいる時などはよく袿の袖を噛んで、しくしく泣いていた。そんな中で、大殿様が良秀の娘に恋をしたという噂が、ますます広がるようになった。中には、地獄変の屏風の由来も、実は娘が大殿様の意に従わなかったからだという者もいたが、そんなことがあるはずがない。
私たちの目から見ると、大殿様が良秀の娘を引き取らなかったのは、まさに娘の身の上を哀れに思ったからだ。あのように頑なな親のもとに送るよりも、御邸に置いて何の不自由もなく暮らさせてあげようという、難しい思いやりだったのだろう。それは、元々気立ての優しいあの娘を大殿様が気に入ったのは間違いない。しかし、色を好まれたというのは、恐らく無理にこじつけた説であり、いや、むしろ根も葉もない嘘と言った方が良いくらいだ。
それはともかくとして、娘のことから良秀の評判がだいぶ悪くなってきた頃、大殿様は突然良秀を呼び寄せて、地獄変の屏風を描くように命じた。